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「念仏をまうさば」か「念仏をまうせば」か [『一念多念文意』を読む(その146)]

(9)「念仏をまうさば」か「念仏をまうせば」か

 さて、「念仏をもうしますならば(まうさば)」か「念仏をもうしていますから(まうせば)」か。
 前者は「もうす」か「もうさない」かが未定で、もし「もうしますならば」仏になりますと言っているのに対して、後者はすでに「もうす」ことが前提され、「もうしていますから」仏になりますと言っています。どちらでもそれほど違わないように見えるかもしれませんが、そこにある微妙な違いが決定的な意味をもってきます。
 前者では、「もうしますならば」仏になるのですから、裏返しますと、「もうしませんと」仏になれないということになります。つまり「もうす」ことが「仏になる」ための条件ということです。「あなたは念仏をもうしますか、もうしませんか、もうしますと仏になれますが、もうしませんと仏になれませんよ」と言っているのです。
 これでは自力の念仏になってしまいます。そして宗教につきものの「排除の論理」が露骨に顔を出します。
 しかし後者はそうではありません。親鸞みずからのことばを上げますと、たとえば「如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて」(『唯信鈔文意』)とあります。
 この「信楽すれば」は「信楽す」の已然形に「ば」が接続した形で、「信楽していますので」となります。これを「信楽せば」としますと、「もし信楽するならば」という意味となり、「信楽すること」が「摂取される」ことの条件となります。親鸞はそうした言い方を(無意識のうちに)避けているのです。
 信楽することはわれらの手柄ではないということです。

タグ:親鸞を読む
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