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信知するということ [『一念多念文意』を読む(その153)]

(2)信知するということ

 隆寛は『法事讃』の「上尽一形至十念三念五念」の文を引いたあと、同じ善導の『往生礼讃』から「今信知弥陀本弘誓願、及称名号下至十声一声等定得往生、乃至一念無有疑心(いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし)」と、「若七日及一日下至十声乃至一声一念等、必得往生(もし七日及び一日、下十声乃至一声一念等に至るまで、必ず往生を得)」を引いています。
 そして、「これらの文は、たしかに一念多念なか(仲)あしかるべからず」ということを教えてくださっているのだから、「ゆめゆめ偏執すべからざること(どちらかにとらわれることのないよう)」と述べています。親鸞はここでこのふたつの文について解説をしているのです。
 ここで親鸞はまず「信知」ということばに反応しています。信じることと知ることが一体となったことばですが、近代的な感覚ではこの二つはかなり違います。そもそもぼくらにとって「信じる」ということばはかなり縁の薄いものになってしまいました。「あの人は信じられる」とか「明日を信じよう」とは言いますが、「ぼくはこの考えを信じる」というようにはあまり言わなくなりました。否定的には言うでしょう、「あの考えは信じられない」と。でも積極的に何かを信じることは少なくなったのではないでしょうか。
 合理的に説明できるかどうか、できるものは知識のなかに取り入れ、できないものは排除するという姿勢が強くなったということです。
 この姿勢が近代を貫いているのは言うまでもありません。ことばでうまく言い表せないけれども、でも大事なことと思えるから、とりあえずこころの中にしまっておこうということが少なくなってしまいました。ことばで言い表せず合理的に説明できないようなものは幻にすぎないとして、あっさり切り捨てられるようになったのです。

タグ:親鸞を読む
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