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物自体 [『一念多念文意』を読む(その155)]

(4)物自体

 カントはぼくらが世界を捉えようとするとき、必ずあるフィルターを通していると言います。世界を直に見るのではなく、特殊な眼鏡をかけて見ているということです。
 いまはカントの複雑な議論を単純化して、そのフィルターあるいは眼鏡を「ことば」とします。先ほど、あることを知っているというのは、それをことばで説明できることだと言いましたが、ぼくらはことばというフィルターを通すことではじめて世界を捉えることができるということです。
 ぼくらに知られている世界は、ことばのフィルターを通した世界であって、フィルターの向こうにある世界そのものをぼくらは知ることができないのです。フィルターの向こうにある世界そのもの、これがカントのいう物自体です。
 ぼくらは物自体にはアクセスできません。そうしようとするところに、古来おおくの哲学者たちを悩ませてきた形而上学的難問が生まれてくるとカントは言います。
 たとえば世界に始まりがあるかどうかという議論。現代物理学はビッグバンによって宇宙が生まれたと言います。もしこの説がビッグバンによって世界そのものが、したがって時間も生まれたということでしたら、それは物自体にアクセスしようとしていると言わざるをえません。
 ぼくらが知りうる世界は、ことばのフィルターを通した世界だけで、そのフィルターには時間ということばも含まれています。フィルターの向こうにある世界そのものについては、もともとぼくらの認識能力を超えていることですから、不毛な議論になるとを言わざるをえません。
 さてそのカントがこんなことを言っています、「だから私は、信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった」と。

タグ:親鸞を読む
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