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こちらからアクセスするのと、向こうからアクセスしてくるのと [『一念多念文意』を読む(その156)]

(5)こちらからアクセスするのと、向こうからアクセスしてくるのと

 ぼくらの知識あるいは認識には限界があり、そこを超えて飛翔しようとする理性にはストップをかけなければならない。その限界というのが物自体である。これが『純粋理性批判』の仕事でした。しかしカントがその仕事をしたのは、実は信仰に場所を空けておくためだというのです。
 さてしかし物自体を「知ることはできないが、信じることはできる」ということをどう理解すればいいのでしょう。物自体はことばのフィルターの向こう側にあり、「こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)ですが、しかし向こうから思いがけず姿をあらわすことがあるということに違いありません。
 こちらからアクセスしようとしても何ともなりませんが、向こうからぼくらに直にアクセスしてくるのです。
 ぼくらが何かを知ることも、物自体がことばのフィルターを通してこちらに現われているということですから、向こうからぼくらにアクセスしてくると言えそうですが、しかし大事なことは、そのときぼくらはそれを知ろうとしているということです。知ろうとしていないのに(こちらからアクセスしようとしていなのに)、自動的にことばのフィルターを通してこちらに現われてくることはありません。
 その意味では、「フィルターを通して現われてくる」と言うよりも、「眼鏡をかけて見る」と言った方が適切です。積極的に見ようとしてはじめて眼鏡越しに見えてくるのです。そして見えてくるものはもはや物自体ではありません、ことばのころもでくるまれた現象でしかありません。

タグ:親鸞を読む
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