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させられている [『一念多念文意』を読む(その157)]

(6)させられている

 ところが、こちらからアクセスしようとしていないのに、いや、そうしようとしていないからこそ、向こうから思いがけなくアクセスしてくることがある。念のためにもう一度言いますが、それは物自体が自動的にことばのフィルターを通して現れてくるということではありません。
 神秘的な知的直感といったものがもしあるとすれば、それはそのようなものでしょうが、残念ながらぼくらにそんな能力はないと言わなければなりません。ぼくらは受けとったさまざまなデータにことばを与えて(ことばの眼鏡を通して)ようやくそれが何であるかを知ることができるだけです。
 としますと、向こうから思いがけなくアクセスしてくるというのは「知る」ということとはまったく別次元のことで、それが「信じる」ということです。
 「知る」ということは「ことばで言い表す」ことですが、「信じる」ことはことばが及びません。これまで見てきましたように、ことばというものは「知る」ためにあるのですから、「信じる」ことに転用しようとしても思うようにはいかないのです。でも何とかしてひとに伝えなければと思ってさまざまな試みがなされてきました。それが古今東西のいろいろな宗教のかたちでしょう。
 さて「知る」ことは「こちらから」であるのに対して、「信じる」ことは「向こうから」をその本質としますので、それを言い表そうとして「させられている」という使役の言い回しがよく使われることになります。もっともポピュラーなのが「生かされている」でしょうか。あるとき何人かで雑談しているとき、この「させられている」という言い回しが話題になり、どんなことにもこの言い回しを使えるだろうかということになりました。

タグ:親鸞を読む
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