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事後的ということ [『一念多念文意』を読む(その159)]

(8)事後的ということ

 問題は、誰に命じられているわけでもなく、自分からすすんでしようと思うにもかかわらず、そこに見えない力を感じて「させられている」としか言いようがない場合があるということです。同じようにすすんでしているのに、どうしてあるときは(ボランティアとして被災地に行くときは)「させられている」と感じ、あるときは(コーヒーを飲むときは)感じないのでしょうか。
 見えない力で「させられている」と感じるのは事後的であること、ここにひとつの手がかりがありそうです。
 誰かに命じられて何かを「させられている」場合は、命令は行為に先んじています。ぼくらは通常、命令をはっきり意識しながら命じられたことをします。しかしリュックを担いで被災地に行く人は、現地に着いてしまってから「こさせられた」と感じます。「させられている」ではなく「させられた」と完了形になるのです。
 もし見えない力が普通の命令と同じように行為に先んじて働くのでしたら、どんな場合に「させられている」と感じ、どんな場合はそう感じないかを見分けることができるかもしれません。こういうケースには見えない力が働くようだが、こんなケースでは働かないようだと。しかしその働きが事後的にしか感じられないとしますと、どうしてこの場合は感じ、この場合は感じないのかは答えることはできません。
 これは「くじ引き」に似ています。引いてみて事後的に当たりか外れかが分かるのですから、同じように引いたのに、どうしてこの場合は当たりで、この場合は外れなのかと問われても答えようがありません。もしそれに答えがあるとしますと、そのくじ引きは「イカサマ」であると公言しているようなものです。
 このように、くじ引きで当たりが出るかどうかは不確定ですが、見えない力はくじ引きの当たりよりもっと不確定です。くじ引きは、どう引けば当たりが出るかは不確定ですが、当たりくじがあることは事前に分かっています。もしまったく当たりくじがないとしますと、そのくじ引きは詐欺であると言わなければなりません。ところが、見えない力はそれがあるかどうかも不確定です。

タグ:親鸞を読む
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