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「観る」と「聞く」 [『一念多念文意』を読む(その162)]

(11)「観る」と「聞く」

 まずは『般舟三昧経』ですが、「般舟三昧」とは、「諸仏現前三昧」という意味で、七日あるいは九十日間、仏にこころを集中すること(これが三昧で、定とも言います)により、十方の諸仏をまのあたりに見ることができるということです。たとえばこの『経』には「一心に念ずること若しくは一昼夜せん、若しくは七日七夜にして、七日を過ぎて以後、阿弥陀仏を見ん」とあります。
 こころの中に仏を見ることで仏と一体となり、法悦を味わう、これが「般舟三昧」です。この思想が『観無量寿経』に流れ込んでいます。「観無量寿経」の「観」はもちろん仏を「観る」ということで、全部で十六観あるうちの前十三観において阿弥陀仏とその浄土を観る方法が細かく説かれています。
 次に『大阿弥陀経』。これは『般舟三昧経』と同様、浄土経典の中で最古に属する経典です。この経典の特徴は本願の第四願(『無量寿経』では本願は四十八ありますが、ここでは二十四願です)にもっとも明瞭に現われています。「諸天・人民・蜎飛・蠕動(けんぴ、ねんどう、虫たちです)の類、我が名字を聞き、慈心、歓喜踊躍せざるものなからん。皆な我が国に来生せしめん」とあります。
 ここには阿弥陀仏から呼びかけの声が発せられ、われらはそれを聞いて歓喜踊躍するという思想がはっきり説かれています。『般舟三昧経』では阿弥陀仏を「観る」ことで法悦を味わうのですが、ここでは阿弥陀仏の呼びかけを「聞く」ことで歓喜踊躍するのです。親鸞はここに注目していまして、「行巻」に『無量寿経』から第十七願を上げたあと、『大阿弥陀経』の第四願を引いています。
 『無量寿経』の第十七願だけではその言わんとするところがはっきりしないということで、これを上げているに違いありません。阿弥陀仏から呼びかけの声が聞こえて歓喜踊躍することが救いに他ならないという点に浄土思想の源流があることを親鸞はしっかり受けとめたと思われます。

タグ:親鸞を読む
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