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「称える」ということ [『一念多念文意』を読む(その163)]

(12)「称える」ということ

 このように浄土思想には阿弥陀仏をこころに「観る」ことで一体化する流れと、阿弥陀仏の声を「聞く」ことで歓喜踊躍する流れの二つがありますが、これで終わりではありません。念仏と言いますと、こころに仏を「念ずる」(「見る」と同じです)こととは別に、仏の名号を口に「称える」ことがあります。というより、ぼくらにとって念仏といえば「南無阿弥陀仏」と称えることを真っ先にイメージするのが普通でしょう。「見仏」でも「聞名」でもなく「称名」、これこそ念仏です。
 この流れをはっきりさせたのは善導です。善導は『観無量寿経』の解釈を一変させるのです。『観経』はあくまで阿弥陀仏とその浄土を「観る」経典ですが、善導はそれを阿弥陀仏の名号を「称える」ことへと大きくシフトさせるのです。上に述べましたように、全十六観のうち、前の十三観で仏・土を「観る」方法が説かれていまして、善導はこれを定善とよびます。「定」つまり心を凝らして仏・土に思いを致すということですが、そのように心を集中させることが難しいわれら凡夫のために後の三観が説かれているとして、これを散善とよびます。
 凡夫も上品上生から下品下生まで九品に分かれますが、とりわけ品性の劣る下品下生のものも救われなければなりません。そのために用意されたのが、ただ阿弥陀仏の名号を口に称えるだけの「称名」であることに善導は注目するのです。『観経』の該当する箇所にこうあります、「この人(五逆・十悪の人)、(臨終にあたり)苦に逼(せま)られて、仏を念ずる遑(いとま)あらず。善友(ぜんう)、告げていう、“汝、もし念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏(の名)を称うべし”と」。このように、たとえ十声でも称名すれば、五逆・十悪の人も往生できると説いてあります。

タグ:親鸞を読む
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