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再び「観る」と「聞く」 [『一念多念文意』を読む(その164)]

(13)再び「観る」と「聞く」

 善導はこの『観経』下品下生段を『大経』の第十八願、「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、ないし十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」に結びつけるのです。すなわち、「どんな悪人も臨終においてたとえ十声でも称名すれば往生できる」という『観経』の文言と、「至心に信楽して往生したいとおもい、たとえ十回でも念仏すれば往生させたい」という『大経』の本願をつなげることで、称名念仏こそ弥陀・釈迦二尊が往生のために用意してくださったという第三の道が拓かれたのです。
 法然がこの善導の画期的な解釈に目をひらかされ、専修念仏をひろめたのはよく知られています。
 以後、日本において念仏といえば称名念仏であり、それ以外にないように思われていったのです。かくして「観る」念仏、「聞く」念仏、そして「称える」念仏の三者が出そろったわけですが、ここで忘れていけないのは、第三の「称える」念仏も、もとは第一の「観る」念仏の流れの中から出てきたものであるという点です。
 もともと仏を「観る」ために心を集中する一つの方法としてあった称名念仏が独立して、それだけで往生することができる方法となったということ。としますと、やはり浄土思想には、大きく仏の姿を「観る」流れと、仏の声を「聞く」流れの二つがあると言うべきでしょう。
 そこで改めて仏の姿を「観る」と仏の声を「聞く」とを比べてみましょう。仏の姿を「観る」ためには、こちらから仏にアクセスしなければなりません。そしてついには仏と一体化して、もう「われも仏もない」境地に達するのです。これは無我や空を「悟る」という仏教の本流に属すると言えるでしょう。

タグ:親鸞を読む
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