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仏を「観る」とは [『一念多念文意』を読む(その165)]

(14)仏を「観る」とは

 仏を一心に「観る」という方は、浄土思想でありながら聖道門の仏教と馴染みやすく、たとえば天台宗では円仁により「常行三昧」として延暦寺に持ち込まれることになります(親鸞は「常行三昧堂」の堂僧だったといわれます)。あるいは禅宗とも相性がよく、坐禅と念仏とが合体されることもあります(慈愍流念仏)。
 それに対して仏の呼び声を「聞く」というとき、仏の呼び声は向こうからやってきます。そして思いがけずアクセスしてくる仏の声に「救われる」のです。親鸞の浄土思想がこちらの流れの中にあり、その他力性を窮極までおし進めたものと言えます。
 このように「観る」と「聞く」とは対照的ですが、しかしそれをただ対立的に捉えるのではなく、両者が「信知す」ということばに一体化されているということに改めて思いを致したいと思います。親鸞は上の文の中で、「“知”といふは、観なり。こころにうかべおもふを観といふ」と述べていますが、そもそも仏を「こころにうかべおもふ」とはどういうことかを考えてみましょう。
 仏とは真如のことですから、無我や空そのものをさしていると言えます。さて無我を「こころにうかべおもふ」ことは如何にして可能か。「われがない」ということを「こころにうかべおもふ」のは「われ」でしかありませんが(それ以外の誰でしょう)、そんなことがどうしてできるのか。
 「われがない」と「われ」が思うというのはどうにも矛盾します。それはデカルトが言うとおりです。デカルトはそこから「ゆえに、われあり」というのですが、でもそのわれをわれが疑っていることは依然として確かです。ですからスピノザの言うように「われは、疑いつつある」というのがほんとうのところなのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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