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本文22 [『一念多念文意』を読む(その167)]

           第12回 死者としての仏

(1)本文22

 これは多念の証文なり。おもふやうにはまふしあらはさねども、これにて一念・多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生・多念往生とまふすことなし。これにてしらせたまふべし。

 (現代語訳)以上は多念の証文です。思うようには言い表せませんが、以上のことから一念・多念の争いはあってはならないことをおしはかってください。浄土の真実の教えでは、念仏往生と申します。決して一念往生とも多念往生とも申しません。ここから皆さん方でご理解ください。

 いよいよ終わりに近づいてきました。ここで親鸞は結論を述べています。一念か多念か、そのどちらが正しいかというのではなく、このように争うこと自体が無意味だというのです。親鸞はこれまでほんとうの信心とはどのようなものか、ほんとうの念仏とは何かを明らかにすることで、そのような争いそのものが氷解するのだと述べてきたのです。それを最後にひとことで「念仏往生とまふすなり。またく一念往生・多念往生とまふすことなし」と締めくくっています。
 そこでこの「念仏往生」について改めて思い廻らすことで、一念・多念の争いの無意味さを確認したいと思います。
 「念仏往生」とは「念仏すれば往生できる」ということでしょう。唯円は「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」と言っていました(『歎異抄』第12章)。さあ、ここでもこの短い文言が躓きの石になりかねません。前に信心と念仏とが切り離されると、信心プラス念仏となり、手柄としての信心、手柄としての念仏になってしまうと言いました。今度は、念仏と往生とが切り離されますと、手柄としての念仏によって往生を獲得するというかたちになってしまうと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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