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原因と結果 [『一念多念文意』を読む(その168)]

(2)原因と結果

 念仏と往生が切り離されるということは、念仏が往生の条件となるということです。念仏という原因が往生という結果を招くと言ってもいい。
 原因と結果、ここには多くの謎があります。ちょっと本筋からそれるかもしれませんが、自力と他力の問題に絡んでくることがらですので、この機会に少し考えておきましょう。ものごとにはかならず原因がある、ぼくらはこう思っています。しかし何を根拠にそう思うのか、そんな疑問を提出したのがヒュームというイギリスの哲学者です。
 彼はあることがらAが起こると、それに続いてことがらBが起こるという経験を重ねる中で、AはBの原因だと考える習慣がかたちづくられただけだと言います。ですから、Aが起こると、かならずBが起こるということではないのです。今までのところ、Aの後にはBが起こっただけで、ひょっとしたら、あしたAの後にBは起こらないかもしれないと。
 つまり因果関係というのは、思考上の習慣にすぎないということです。
 なるほどヒュームの言うように個々の因果関係は経験から帰納されたものでしょうが、しかし因果律そのもの、つまり「出来事にはかならず原因がある」ということもそうでしょうか。これまでのところ出来事にはかならず原因があったが、あした原因のない出来事が起こるかもしれない、のでしょうか。どうも違うようだと感じます。
 カントという哲学者は逆じゃないかと言います。つまり、経験から因果律を帰納してきたのではなく、むしろ因果律があるから経験できるのではないかということです。因果律は世界そのものにもとから備わっているものではないが、さりとて単なる経験則でもなく、われらがそれをもちいてものごとを見る眼鏡のようなものだと。

タグ:親鸞を読む
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