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原因としての念仏は手柄としての念仏 [『一念多念文意』を読む(その171)]

(5)原因としての念仏は手柄としての念仏

 犯人が誰か分からないことがあっても、犯人がいないなんていうことがあってはなりません。犯人がいないと、怒りをどこに向けていいのか分からなくなります。草の根を分けてでも犯人を捜しだそうとする執念が湧き起こるのは、腹の虫がおさまらないからです。こんなふうに、原因を追究するのは、過去を詮索しているようですが、目は将来を向いています。「どうしてくれようか」という思いで、血眼になって原因(犯人)を追及しているのです。
 一方、ヨブはどうでしょう。彼は現実をそのまま受け入れています。いや、現実に受け入れられていると言うべきでしょうか。ヨブにとってこの現実をもたらしたもの(原因)なんてどうでもいいでしょう。それを追及しようという動機そのものがないのです。ぼくにはライオンに首根っこをかみつかれた瀕死の鹿の澄んだ目が浮かびます。鹿には、このひどい災難をもたらしたもの(原因)が何かを詮索しようなどという思いはないでしょう。ただ静かに災難に身を任せているだけです。鹿には、一般に人間以外の動物たちには因果律はないのではないでしょうか。
 念仏と往生に戻ります。
 念仏と往生が切り離されますと、念仏は往生を生む原因となるということでした。そして念仏を往生の原因とみることは、往生を手に入れるためには念仏しなければならないと考えることに他なりません。罪を犯すことを災いの原因とみることは、災いを回避するためには罪を犯さないようにしなければならないと考えることであるように。因果律の背後には実践的な要請があるのです。こうして往生の原因としての念仏は手柄としての念仏であることがはっきりします。やはり念仏と往生を切り離して考えてはいけないということです。

タグ:親鸞を読む
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