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東日本大震災の死者 [『一念多念文意』を読む(その173)]

(7)東日本大震災の死者

 どこかに「いるかのように」思わざるをえない存在、それが仏ですが、死者もまた、実体として存在するわけではありませんが、でもどこかに「いるかのように」思わざるをえません。ここから「仏とは死者のことではないか」というぼんやりとした思念が生まれてきます。
 このことは前にも「本願とは死者の声ではないか」というかたちで述べたことがありますが(第6回)、改めて仏と死者の関係について思いを馳せてみたい。
 東日本大震災から5年半の歳月が流れましたが、あの大災害はぼくらに死者の存在についていろいろの問題を突きつけてきました。別に大災害でなくても、病気や事故で日々たくさんの人が亡くなっているわけですから、死者のことは日常的に突きつけられているはずですが、身近な人が亡くなった場合でなければすぐ忘れてしまいます。自分を含めて生きている人間のことが大事ですから、死者のことはなるべく早く忘れるようになっているのでしょう。
 ところが大災害や戦争でたくさんの人が亡くなったようなときは、たとえその中に身近な人がいなくても、死者たちの存在がどーんと重くのしかかってきます。まして家族や親戚や友人を亡くした人はその喪失感からそう簡単に立ち直れるものではありません。いつまでも死んだ人たちのことをくよくよ考えていてはいけない、早く前を向いて歩き出さなければと思っても、気がついてみると、あのときのこと、流されてしまった人のことを考えてしまっているというふうでしょう。そのとき、「もう死んだ人のことは忘れなければならない」という思いと、「いや死者のことは決して忘れてはならない」という思いが激しく交錯しているに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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