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死者は思い出す人にだけ [『一念多念文意』を読む(その180)]

(14)死者は思い出す人にだけ

 ここで改めて死者の存在のありようを考えてみます。
 生者についても死者についても同じように「存在する」と言いますが、その存在のありようはまったく違います。まず生者が存在するというとき、その人は誰にとっても存在します。その人をまったく知らない人にとっても存在します。存在することと知っていることは別のことです(ただ、ある人が存在すると言うためには、どうすればその人にアクセスできるかを示さなければなりません)。
 しかし死者については事情が異なります。死者はその死者を思い出す人にだけ存在するのです。
 ここで疑問が生じるかもしれません。歴史上の人物はみな死者ですが、その人たちのことを思い出すことはないにもかかわらず存在するではないかということです。高校生に世界史を教えていますと、ときどき「先生は見てきたように言うけど、その人がほんとうにいたかどうかどうして分かるの?」という質問が飛び出すことがあります。
 なるほどぼくはクレオパトラに会うという光栄に浴したことはありませんが、でも、クレオパトラのことは彼女に会ったことのある多くの人に思い出され、それが記録にも残り、ずっと伝えられてきてぼくのところまでやってきたわけです。その意味では、ぼくは間接的に彼女に会ったと言えるのではないでしょうか。そして間接的に思い出すと言ってもいいのではないでしょうか。
 ぼくは祖父を知りません。ぼくが生まれる少し前に亡くなったのですが、その写真は仏壇の上からいつもぼくを見ていましたし、母から「おまえによく似ていた」と聞かされていましたから、実際に会ったことはなくても会ったことがあるような気がします。このように、直接的か間接的かの違いはあっても、死者はやはり思い出のなかにいると言えそうです。

タグ:親鸞を読む
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