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思い出すといっても [『一念多念文意』を読む(その181)]

(15)思い出すといっても

 おなじ死者でも、歴史上の人物のように多くの人の記憶にとどめられている人から、祖父のようにごく限られた人の思い出のなかにしかいない人までさまざまです。祖父はもう少しすれば誰からも思い出されなくなるでしょうが、そのときには死者としての存在もなくなると言わなければなりません。
 さて死者は思い出のなかに存在すると言ってきましたが、「思い出す」ということばには曖昧さがつきまといます。こちらから思い出そうとして思い出す場合と、ふと思い出される場合があり、どちらも「思い出す」と言います。前者は忘れてしまったことを思い出そうと記憶をまさぐる場合で、首尾よく思い出せたとき「ああ、思い出した」となります。一方、後者は思いがけないときにふとあることが蘇ってくる場合です。
 どうしてこれを分けるかと言いますと、先に述べました直接的・間接的にかかわってくるからです。直接知っている死者と、間接的にしか知らない死者とでは、どちらも思い出のなかに存在するとしても、その思い出し方に違いがあるのです。
 直接知っている死者、たとえば母の場合、思い出そうとして思い出すとき(生者から死者へのベクトル)と、ふと思い出されるとき(死者から生者へのベクトル)の両方がありますが、間接的にしか知らない死者、たとえば祖父の場合は、思い出そうとしなければ思い出すことはありません。
 あるときふと死んだ人がまぶたに浮かび、その声がするというのは、生前ともに生きた身近な人です。ともに生きた死者を思い出そうとして思い出す場合もありますが、そのようにこちらから思い出そうとする場合と、思いがけずふと思い出される場合とでは何かが大きく異なるのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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