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仏としての死者 [『一念多念文意』を読む(その182)]

(16)仏としての死者

 生者が死者のことを思い出そうとする場合は、生者の関心のありように応じて死者が現われてきます。「歴史はつくられる」ということばはそのことを言っているのでしょう。生者の関心にもとづいて歴史は書かれますから、誰がどんな関心のもとに書くかによって大きく違ってくることになり、場合によっては都合の悪い事実はなかったことにされてしまいます(南京事件はなかった!など)。
 生者が死者を思い出そうとするときは、「あのとき、あそこで」というように焦点を絞ることになりますが、「いつ、どこで」かは生者の関心に左右されます。しかし、あるときふと死者のことが思い出される場合は、そのときに生者がどんな思いをしているか、どんな関心をもっているかに関わりなく、死者が突然現れます。
 思い出そうとして浮かび上がる死者はただの死者ですが、ふと思い出される死者が「仏としての死者」ではないかというのがぼくの仮説です。
 死者のことを仏というのは普通のことで、「あの人もついに仏さんになってしまった」というのは「死んだ」という意味であるのは子どもでも知っています。さてしかしいつからこうなったのか。仏教にはもともとそんな発想はなかったはずです。仏とはBuddhaの音訳であり、目覚めたもの、真理を悟ったものを指すことばとして、もとは釈迦のことを仏と呼んでいたわけです。
 釈迦の弟子たちから言えば、仏とはそこを目指して一歩一歩すすんでいく目標です。弟子たちはもちろん仏としての釈迦から教えを受けますし、釈迦亡き後も残された釈迦のことば(それが経典としてまとめられるようになります)に教えられるのですが、しかしあくまで自ら仏を目指して歩んでいかなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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