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宮殿のうちに五百歳 [『浄土和讃』を読む(その6)]

(6)宮殿のうちに五百歳

 冠頭讃の第2首に進みます。

 「誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿(くでん)のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」。
 「弥陀の本願うたがって、南無阿弥陀仏をとなえれば、宮殿のなかで5百年、むなしいときがすぎてゆく」。

 ここで「ときたまふ」といいますのは、『無量寿経』のなかに次のように説かれているということです、「仏智を疑惑せしをもってのゆえに、かの宮殿に生まれて、刑罰ないし一念の悪事もあることなきも、ただ五百歳の中において、三宝(仏・法・僧)を見たてまつらず」と。
 経典では、阿弥陀仏の浄土に往生するのに化生と胎生の二種類あると説かれます。化生とは忽然と浄土に生まれることであり、胎生とは五百年の間、母胎の中に(あるいは宮殿のうちに)あるごとく閉ざされて仏も浄土も見ることができないということです。どうしてそんな区別があるかと言いますと、仏の智恵を信じるか、それを疑うかの差があるからで、信じれば化生、疑えば胎生です。
 このように経典では「いのち終ったあと」のことかのように語られ、親鸞も経典にそってうたっているのですが、先の第1首と並べて読みますと、また違った光景が広がってきます。
 第1首の前半「弥陀の名号となへつつ 信心まことをうるひとは」と、第2首の前半「誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は」はきれいなコントラストをなしています。本願を信じて念仏する人と本願を疑いながら念仏する人との対照です。としますと第1首の後半「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」と第2首の後半「宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」も同じ土俵の上で味わうべきでしょう。
 「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」は間違いなく「今生ただいま」のことですから、「宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」も「今生ただいま」のことと味わいたいのです。本願を疑っている人は、念仏しているにもかかわらず、「今生ただいま」、こころ「むなしく」過ごしているのではないか、と。

タグ:親鸞を読む
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