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讃阿弥陀仏偈和讃とは [『浄土和讃』を読む(その11)]

           第2回 讃阿弥陀仏偈和讃(その1)

(1)讃阿弥陀仏偈和讃とは

 冠頭讃2首のあと、讃阿弥陀仏偈和讃48首が続きます。『浄土和讃』全118首の中で最大のボリュームです。「讃阿弥陀仏偈」と言いますのは、曇鸞が『無量寿経』をもとにして、阿弥陀仏とその浄土を讃えてつくった七言の「偈(うた)」のことです。親鸞も『教行信証』において「正信偈」とよばれる七言の「偈」を120句つくっていますが、讃阿弥陀仏偈は350句あります。ひょっとしたら親鸞はこの讃阿弥陀仏偈という漢語の「うた」を和語にうつしかえようとして和讃という形の表現方法に目覚めたのかもしれません。
 さて讃阿弥陀仏偈和讃の最初にくるのが、次の有名なうたです。

 「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥(もうみょう)をてらすなり」(第3首)。
 「弥陀正覚のその日から、いま十劫のときがすぎ、御身のひかりはてもなく、われらの闇をてらしだす」

 もとになっている曇鸞の偈は「成仏よりこのかた十劫を歴(へ)たまへり 寿命まさに量(はか)りあることなし 法身の光輪法界にあまねくして 世の盲冥を照らす かるがゆえに頂礼(ちょうらい)したてまつる(成仏已来歴十劫 寿命方将無有量 法身光輪徧法界 照世盲冥故頂礼)」というものです。もとの偈を生かしながら、巧みに和語に直し、しかも七・五調に整えるという素晴らしい技を見せています。
 前半2句は、法蔵菩薩が「一切衆生をわが浄土に生まれさせたい」と願われ、「かなわずば成仏せず」と誓われた、その誓願が成就してめでたく阿弥陀仏となられてからいまに十劫のときがたったとうたっています。十劫というのは永遠ということに他なりません。弥陀の本願はいまにはじまったのではなく、悠久のむかしから働き続けているということです。後半2句は、その本願の働きを光輪がわれらを照らすというイメージに具体化して、弥陀の光輪は時間的・空間的に「きはもなく」、われら「盲冥」を照らし続けてくれているとうたっています。

タグ:親鸞を読む
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