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一切の業繋ものぞこりぬ [『浄土和讃』を読む(その21)]

(11)一切の業繋ものぞこりぬ

 さて次に「遇斯光(ぐしこう)のゆゑなれば 一切の業繋(ごうけ)ものぞこりぬ」という言い回しに注目しましょう。
 弥陀の光明に遇うことができますと、一切の業繋つまり煩悩が除かれるというのです。弥陀の光明はぼくらの煩悩を消し去ってくれるというのでしょうか。ぼくらは煩悩のない身となれるということでしたら夢のようですが、そんなうまい話ではありません。弥陀の光明に遇うことができたとしても、ぼくらの煩悩はそのまま何も変わりません。では「一切の業繋ものぞこりぬ」とはどういうことか。
 ぼくらの煩悩とは「わたし」への執着に他なりません。ぼくらは同一のものとして持続する「わたし」にとらわれ、「わがもの」に執着しています。そして普段そのことに気づいていません。ぼくらは「わたし」にとらわれ、「わがもの」に執着しながら、それを当たり前のこととして何の問題も感じていません。「それがどうしたの」と思っています。ありもしないものにとらわれているなどとは露ほども思っていないのです。
 それがぼくらの煩悩です。煩悩とは欲を起し(貪欲)、腹を立てること(瞋恚)だと言われますが、金子大栄氏が教えてくれますように、欲を起し、腹を立てることそのものが煩悩ではありません、そのことに「煩い悩む」ことが煩悩です。つまり、欲を起し、腹を立てながら、「あゝ、これは煩悩だ」と懺悔することが煩悩です。欲を起し、腹を立てながら、それを当たり前のこととして何の問題も感じなければ、煩悩などどこにもありません。
 そして「あゝ、これは煩悩だ」という懺悔は自分からは出てきません。それは外から突きつけられます。それが弥陀の光明に遇うということです。弥陀の光明に遇うことではじめて「あゝ、これは煩悩だ」と気づかされ懺悔させられるのです。そして、ここが肝心ですが、「あゝ、これは煩悩だ」と気づくことが、すでにして煩悩という執着から抜け出すことです。煩悩という執着がなくなるのではありません。ただこれは執着だと自覚するだけです。それが「一切の業繋ものぞこりぬ」ということです。

タグ:親鸞を読む
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