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智恵の光 [『浄土和讃』を読む(その29)]

(19)智恵の光

 次は智恵光です。

 「無明の闇を破するゆゑ 智恵光仏となづけたり 一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉(たんよ)したまへり」(第11首)。
 「無明の闇を破るゆえ、知恵のひかりのほとけとぞ。諸仏も弟子もみなともに、ほめて喜びあらわさん」

 もとの曇鸞の偈は「仏よく無明の闇を破す ゆゑに仏をまた智恵光と号けたてまつる 一切諸仏三乗衆 ことごとくともに歎誉したまへり、ゆゑに稽首(けいしゅ)したてまつる」です。弥陀の光明はわれらの無明の闇を破ってくれますから、これを智恵の光となづけるというのです。ここで三乗衆と言いますのは、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩を指し、小乗・大乗の修行者たちのことです。
 ここでは無明と智恵とが対となっています。光が闇を破るというのは、智恵が無明を破ることだというのです。
 親鸞はよく光明とは智恵のことだと言います。光明をこうむるということは、智恵を与えられることに他ならないと。ここで考えたいのはこの「智恵」というものについてです。仏教で智恵と言いますのは、ものごとの実相を認識する無分別智のことで、これを得た状態が菩提、あるいは正覚です。修行者たちはこれを得ようとしてさまざまな行を積むわけですが、その智恵が向こうから与えられるというのです。これが他力ということに違いありませんが、さてしかし智恵が与えられるということをどう理解すればいいか。
 普通よく言われるのは、知識は与えることができるが、智恵はみずから磨くしかないということです。あるいは、与えられた知識をため込むだけではダメで、それを駆使して自分で考えることができるようにならなければならないと。この常識からしますと、与えられるのは知識であって智恵ではないように思われます。知識はそれがある人からない人へ伝えることができますが、智恵はそういうものではなく、みずからつかみ取るしかないのではないか、そう思えます。
 としますと、智恵の光が届けられるというのはどういうことか。

タグ:親鸞を読む
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