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弥陀初会の聖衆は [『浄土和讃』を読む(その37)]

          第3回 讃阿弥陀仏偈和讃(その2)

(1)弥陀初会の聖衆は

 十二光仏を讃える和讃の後、浄土の聖衆(しょうじゅ、菩薩たち)を讃える和讃11首がつづきます。その第1首。

 「弥陀初会(しょえ)の聖衆は 算数(さんじゅ)のおよぶことぞなき 浄土をねがはんひとはみな 広大会を帰命せよ」(第16首)。
 「弥陀のはじめの説法に、つどう菩薩のかずしれず。浄土をねがうひとはみな、広大会にぞ帰命せん」。

 曇鸞の偈は「阿弥陀仏の初会の衆は 声聞菩薩の数無量なり 神通巧妙にして算(かぞ)ふることあたはず このゆゑに広大会を稽首したてまつる」です。弥陀初会とは、阿弥陀仏が成仏してはじめての説法ということで、そこに集まった菩薩たちの数ははかり知ることができないとうたっています。これは『無量寿経』に「かの仏の初会の声聞衆の数、称計(しょうげ、数えること)すべからず。菩薩もまたしかなり」とあるのによるものです。
 ところで、かの仏の初会はどこで行われたのでしょう。言うまでもなく、かの仏の国、浄土で行われたのに違いありません。そしてそこに集まったのは、声聞や菩薩ら聖衆たちです、われら凡愚ではありません。そのようなことから「弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき」とうたわれても、なにかピンとこない感じがします。どこか遠い世界の、われらには縁のない話という印象を受けてしまうのです。
 考えてみますと、本願が成就したのも十劫のむかしです。「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」です。したがって弥陀初会もまた十劫のむかしでしょう。これがどこか遠い世界の縁のない話に聞こえるのは、十劫のときを隔てたはるか遠い出来事と受け止めているからです。
 しかし、本願が本願であるのは、それが「いまここ」ではじまるからです。「むかしの本願がいまはじまる」(曽我量深)のです。したがって、弥陀初会もまたいまはじまるのに違いありません。そして弥陀初会に列なるのは浄土の菩薩たちばかりではありません、われら凡愚も聞かせていただくのです。


タグ:親鸞を読む
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