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「いま」ということ [『浄土和讃』を読む(その38)]

(2)「いま」ということ

 「いま」ということばはおもしろい。「はやく来なさい」と言われて「いま行きます」というとき、まだ行っていません、「これから」行くのです。もちろん「ずっと先」のことではなく「いますぐ」行くのですが、でも「これから」には違いありません。一方、「注文したそばはいつ来るんだ」と言われて「いま店を出ました」というとき、(ほんとうはまだ出ていなくても)「すでに」出たと言っています。これも「ずっと前」ではなく「たったいま」出たところということですが、それでも「すでに」には違いありません。そして「いま何している?」と聞かれて「いま食事中」と答えるときは、「ちょうど食事をしている最中」ということです。
 こんなふうに「いま」は、その文脈の中で「これから」になったり、「すでに」になったり、「その最中」になったり変幻自在です。
 さらに「その最中」の意味の場合も、「いま」の幅は伸縮自在です。帰宅途中のパパから電話で「いま何してる」と訊かれた子どもが「いまパパと電話してる」と答えるのはおかしいですが、それがおかしいのは「いま」の幅を狭く取りすぎるからです。パパが期待しているのは「いまご本を読んでいる」といった答えでしょう。少し前からご本を読み始め、そして電話が終った後もまた読み続けるでしょうが、それぐらいの幅をもつ「いま」が想定されています。あるいは道でばったり旧友に会い、「やあ久しぶり、いま何している」と尋ねられて、「定年退職して、年金暮らしだよ」と答えるとき、この「いま」には数年の幅があります。
 ぼくらはともすると「いま」を点のようなものとしてイメージしますが、あにはからんや、「いま」は「これから」も「すでに」も含み、しかもその幅が伸縮自在であるであるということ、これは大事なことを語っています。

タグ:親鸞を読む
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