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弥陀初会は「いま」はじまる [『浄土和讃』を読む(その39)]

(3)弥陀初会は「いま」はじまる

 「いま」の幅を思い切り長く取りますと、たとえば「いまは間氷期で、いずれ次の氷河期が来る」と言うとき、この「いま」は数万年の長さがあります。
 この場合の「いま」は、第四氷河期が「まえ」であるのに対して「いま」と言っていますが、このように「いま」の幅は「まえ」が何であったかによって決まってきます。帰宅途中のパパが子どもに「いま何してる?」と電話するときの「いま」は、パパが朝出かけたときが「まえ」であるのに対する「いま」です。ばったり会った旧友が「やあ久しぶり、いま何している?」と訊くときの「いま」は、一緒に仕事をしていたのが「まえ」であるのに対する「いま」です。
 このように「いま」と「まえ」はセットになっています。そして「いま」と「まえ」の間には時間の切れ目があります。「いま」は「まえ」にあったことがもはやなくなっています。「いま」はもはや氷河期ではなく、「いま」はもはや彼と一緒に仕事をしていません。過去とは現在(現に在る)ではないということです。過ぎ去ってしまって、もう二度と戻ってきません。それに対して、たとえそれが数万年前からであろうと、いまに続いていれば現在です。「いま」間氷期なのです。
 「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」(第3首)とありましたが、弥陀成仏から十劫を経たからといって、いまに続いているのですから、それは決して過去のことではありません、現在です。「まえ」のことではありません、「いま」です。それを「まえ」のことと感じる人にとって、それはもはや存在しません。でもそれを「いま」と感じる人には、それは現にあります。
 弥陀初会も同じことです。それは十劫のむかしにはじまったのでしょうが、いまに続いているに違いありませんから、それを「いま」聞くひとにとっては、まさに「いま」はじまるのです。

タグ:親鸞を読む
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