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還相の菩薩 [『浄土和讃』を読む(その41)]

(5)還相の菩薩

 第二十二願は還相回向の願と呼ばれます。浄土へ救われていく姿が往相(自利の相)であるのに対して、浄土から娑婆に還る姿が還相(利他の相)です。
 これはともすると、現世では往相で、来世に還相と理解されますが、そうしますと往相と還相が時間的に切り離され、還相が手の届かない所に押しやられてしまいます。還相の菩薩がわれらには縁のない存在になってしまうのです。そうではなく、往相が取りも直さず還相であり、還相がそのまま往相であるというように理解すべきでしょう。ぼくらは本願に遇うことにより救われていく往相にあるのですが、それがそのまま、他のどなたかにとっては還相であるということです。たとえば親鸞は、彼自身にとっては浄土へ救われていく往相にありますが、恵信尼にとっては娑婆に還ってきた還相です。
 曽我量深的に言えば、「前姿は往相、後姿は還相」です。
 その際、大事なことは、往相も還相も弥陀の回向だということです。事前ではなく、事後であるということ。ぼくらは救われようとして信心し念仏するのではありません、気がついたらもうすでに救われているのです(その気づきが信心であり念仏です)。救いは(事前に)得ようとして得られるものではありません、気づいたら(事後に)得てしまっているのです。還相も同じです。どなたかを救おうとして救えるものではありません、気がついたらどなたかにとっての救いになっているのです。救いは(事前に)与えようとして与えられるものではありません、気づいたら(事後に)与えてしまっているのです。
 「なむあみだぶつ」は向こうからやってきて、それに遇うことができたとき、すでに救いを得てしまっています。そしてその喜びがまた「なむあみだぶつ」の声となり、それがどなたかの救いとなっている。こんなふうに「なむあみだぶつ」の救いは向こうからやってきては次々とリレーされていくのです。

タグ:親鸞を読む
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