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十方衆生のためにとて [『浄土和讃』を読む(その42)]

(6)十方衆生のためにとて

 菩薩和讃の3首目です。

 「十方衆生のためにとて 如来の宝蔵あつめてぞ 本願弘誓に帰せしむる 大心海を帰命せよ」(第18首)。
 「衆生のために菩薩衆、如来の智慧をあつめきて、本願のこえ気づかせる。大心海に帰命せん」

 もとの曇鸞の偈は「安楽国土のもろもろの声聞は みな光一尋(いちじん)にして流星のごとし 菩薩の光輪は四千里にして 秋の満月の紫金(しこん)に映ずるがごとし 仏の宝蔵を集めて衆生のためにす ゆゑにわれ大心海を頂礼したてまつる」ですが、その意をとって約めています。この偈は『無量寿経』に「かの仏国土の中のもろもろの声聞衆は、身光一尋なり。菩薩の光明、百由旬を照らす」とあるのにもとづいています。
 このうたは前首につづいて還相の菩薩のはたらきを讃嘆しています。「十方衆生のために…本願弘誓に帰せしむる」というのです。弥陀が光の仏であるように、還相の菩薩たちも光をはなってわれらを本願へと誘ってくれる。さて、ここで考えたいのは、この娑婆世界とかの安楽国土との関係です。『無量寿経』も曇鸞の偈も、菩薩たちは「安楽国土」にいて、「かの仏国土」から光をはなつと説きますが、還相の菩薩はこの娑婆世界に戻ってくるのですから、舞台は「ここ」になっているのではないでしょうか。
 因みに、第二十二願を普通に読みますと、安楽国土の菩薩たちは仏となるのが原則であり、ただ一切衆生を済度しようと娑婆世界に戻ってくるものは例外である、と理解されますが、親鸞は、菩薩はかの仏国土で仏となるのが原則ではなく、娑婆に戻って衆生利益に尽くすのが本来の姿だと読みます。菩薩たるものはみな娑婆に戻って普賢の徳を行ずるものだというのです。この読み方をしますと、安楽国土には誰もいないことになります。ひとたびは安楽国土へ往くとしても、そこに留まることなく、すぐさま娑婆世界にUターンしてくるのですから。
 としますと、いったい安楽国土とは何でしょう。

タグ:親鸞を読む
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