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知覚と想起 [『浄土和讃』を読む(その46)]

(10)知覚と想起

 散歩道で見知らぬ方から「こんにちは」と声をかけられ、それが「なむあみだぶつ」と聞こえたというぼくの原体験に戻ります。
 ぼくは目の前に見知らぬ方の柔和な顔を見、そしてその優しい声「こんにちは」を聞いています。これはぼくが現に知覚していることです。しかし、それが「なむあみだぶつ」と聞こえたというのは、そのように知覚したということではありません。もしぼくがそのように言い張りますと、それは病的な幻聴であると判定されることでしょう。では「なむあみだぶつ」は何か。答えはひとつしかありません、それは想起です。ぼくは「こんにちは」の声を知覚すると同時に「なむあみだぶつ」の声を想起しているのです。
 同窓会に出て「やあ」と声をかけられ、「あれ、誰だったかな」と思い出せないことがあります。「忘れたのかい、○○だよ」と言われて、瞬時に「ああ」と思いだすことがあります。そんなとき、目の前に見ているのは、あれからもう50年も経った老人の顔ですが、その顔の向こうには懐かしい若者の顔が浮かんでいます。老人の顔を知覚すると同時に若者の顔を想起しているのです。老人の顔と若者の顔が〈いまここ〉にあるように、「こんにちは」の声と「なむあみだぶつ」の声が〈いまここ〉にある。
 見知らぬ方の「こんにちは」が「なむあみだぶつ」と聞こえたとき、ぼくにとってその方が還相の菩薩です。
 還相の菩薩は見ることも聞くこともできません。ぼくが見るのは見知らぬ方の柔和な顔だけであり、ぼくが聞くのは「こんにちは」の優しい声だけです。でもその方の顔を通して還相の菩薩を想起し、その声を通して「なむあみだぶつ」の声を想起するのです。親鸞が聖徳太子を観音菩薩の化身として敬うとき、まず聖徳太子を想起し、さらにその聖徳太子の姿を通して観音菩薩を想起するというように、二重に想起しているのです。

タグ:親鸞を読む
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