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釈迦牟尼仏のごとくにて [『浄土和讃』を読む(その47)]

(11)釈迦牟尼仏のごとくにて

 菩薩和讃の5首目に進みます。

 「安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかへりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」(第20首)。
 「浄土往生したとたん、娑婆世界へともどりきて、釈迦牟尼仏とおなじよう、衆生教化ははてもなし」。

 もとの曇鸞の偈はかなり長いのですが、親鸞は還相の菩薩に絞ってうたっています。この和讃の焦点は「釈迦牟尼仏のごとくにて」にあります。還相の菩薩と釈迦仏は「利益衆生はきはもなし」という点において変わりないということです。
 菩薩と仏はもちろん異なります。菩薩は仏になろうとして52の階梯をのぼってゆく修行者です。しかも釈迦仏は仏教をはじめた仏としてとりわけ特別な存在です。ところが還相の菩薩は釈迦仏のごとしと言うのですから、ここには仏教の基本構図の大転換があると言わざるをえません。仏教の基本構図といいますのは、釈迦がはじめて世界の実相(縁起の法)を掴み取り、それを言語化したということです。それが悟りであり、仏教徒(菩薩も)はその悟りをめざして修行を積まなければなりません。
 ところが釈迦も還相の菩薩と変らないとしますと、釈迦には取り立てて特別なところはないということになります。大胆に言ってしまえば、釈迦も還相の菩薩のひとりにすぎません。なるほど釈迦は世界の実相(弥陀の本願)を明確なことばにしてくれましたが、それはなにも釈迦がはじめてではなく、釈迦以前から数知れない還相の菩薩たちがさまざまなかたちで弥陀の本願を伝え衆生を済度してきたはずです。こうして釈迦と修行者たちの関係を軸とする仏教が、弥陀の本願とそれを伝える還相の菩薩たちとの仏教へと衣替えしているのです。

タグ:親鸞を読む
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