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前世と来世 [『浄土和讃』を読む(その50)]

(14)前世と来世

 子どもでも、いのちが始まるのは精子と卵子の結合によることを知っていますし、死んだら腐敗が進み、次第に分解されて分子や原子に戻っていくと答えるのが科学的です。しかしそこには物質的な一連の変化があるだけです。この変化に着目しますと、ぼくらの身体は日々、いや、時々刻々、変化し続けています。個々の細胞は次々と更新されていますから、身体の中身はどんどん入れ替わっているわけです。恐ろしいスピードで入れ替わりながら微妙な均衡が保たれ、おおよその形は維持されているのですが、その均衡が破れ形が崩れてしまうのが死ぬときです。
 さて、この連続的な変化には「いま」がありません。それは時計に「いま」がないのと同じことです。
 「いま」は「まえ」があってはじめて「いま」です。以前上げた例では、「まえ」が氷河期だったのに対して「いま」が間氷期です。同様に、まだこの世に生まれていなかったのが「まえ」であるのに対して「いま」この世に生きているのです。このように「まえ」が何であるかに対応して「いま」が決まってきます、昨日に対して今日、昨年に対して今年といった具合に。同じように前世に対して現世があるのですから、「いま」この世に生きていると感じている以上、まだこの世に生まれる「まえ」があったはずです。
 そりゃそうだ、そのときにはまだ若い父と母がいて、幼い姉と兄がいて、そして生まれる少し前に大きな戦争があって、といくらでも歴史を遡ることはできますが、これはまたしても一連の変化にすぎません。
 時計に「いま」がないように歴史年表にも「いま」はありません。生まれた年月日をその年表の中に穿てば、それからが「いま」で、その「まえ」と分けることができるじゃないかと言われるかもしれませんが、それはあくまでぼくの外から見た話で、この「ぼく」が生まれる「まえ」のことではありません。同じように、ぼくが死んだ後も、何ごともなかったように歴史はその歩みを続けていくでしょうが、それは他ならぬこの「ぼく」がこの世からいなくなった「あと」のことではありません。

タグ:親鸞を読む
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