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前世と来世(つづく) [『浄土和讃』を読む(その51)]

(15)前世と来世(つづく)

 この世に生きているのが「いま」の「ぼく」ですから、まだこの世に生まれていない「ぼく」が「まえ」の「ぼく」で、もうこの世からいなくなった「ぼく」が「あと」の「ぼく」です。これにはとうぜん反論があるでしょう。きみがまだこの世に生まれていないときには、きみはどこにも存在していないし、きみがもうこの世からいなくなったときも、きみはどこにも存在していない、と。
 しかし変ではないでしょうか。高校教師を辞めてからが「いま」の「ぼく」で、高校教師をしていたときが「まえ」の「ぼく」です。あるいは妻と結婚してからが「いま」の「ぼく」で、独身時代が「まえ」の「ぼく」です。こんなふうにどのようにでも「いま」の「ぼく」と「まえ」の「ぼく」を区分できるのに、生まれてからの「いま」の「ぼく」と、その「まえ」の「ぼく」という区分はどうしてできないのでしょう。
 それは簡単なことで、教師時代の「ぼく」も独身時代の「ぼく」も間違いなくこの世に存在しているが、生まれる「まえ」の「ぼく」はどこにも存在していないからだ、と言われるに違いありません。さてしかしここが問題です。いったいどこに教師時代の「ぼく」や独身時代の「ぼく」は存在しているのでしょう。ぼくはもう教師でも独身でもありませんから、教師時代の「ぼく」や独身時代の「ぼく」はどこにもそのひと欠片も存在しないはずです。
 当時の写真もあるし、その頃のことを証言してくれる人もいるのは確かです。でも写真も証言も「いま」存在しているのであり、過去はどこにもありません。これまで繰り返し言ってきましたように、過去は想起されるしかありません。写真も証言も過去を想起するためのよすがでしかないのです。としますと、教師時代の「ぼく」や独身時代の「ぼく」は存在するが、生まれる前の「ぼく」は存在しない、ということはできません。どちらもそれ自体としては存在しないのです。

タグ:親鸞を読む
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