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前世と来世(さらにつづく) [『浄土和讃』を読む(その52)]

(16)前世と来世(さらにつづく)

 教師時代の「ぼく」はそれ自体としてはもはや存在しないとしても、それを想起するための手掛かりはたくさんあります。しかし、生まれる前の「ぼく」は、それを想起しようにも何の手掛かりもありません。過去は想起されるしかないのですから、どのようにでも想起できないならば、それはなかったと言わなければなりません。
 さてそうしますと「前世の縁」はどうなるのでしょう。「あっ、この人だ、この人を待っていたのだ」と思い、前世でその人と会っていたのではないかと感じる。あるいは、散歩道で声をかけてくださった見知らぬ方を還相の菩薩と思い、前世でその方とつながっていたと感じる。これらはただの幻にすぎないのでしょうか。
 ただそんな気がするだけですから、いわゆる想起とは異なります。デジャブ(既視感)という現象も、「あれ、これは前に見たことがあるぞ」という気がするだけで、そのように想起しているわけではありません。「前世の縁」などというのはデジャブと同じように幻にすぎないとも言えるのですが、しかし翻って考えれば、想起された過去だって幻かもしれません。
 ラッセルの有名な「5分前仮説」があります。いま目の前にある世界が、これまでの出来事の記憶や証拠も含めて、すべてたった5分前に始まったかもしれないというのです。そんな馬鹿な!御嶽山が噴火したのは2週間も前のことだ、と抗議しても、ラッセルは、いや、そういう記憶や証拠もすべて5分前に生まれたのかもしれない、その論理的可能性は否定できない、と言うでしょう。
 いやはや哲学者というのはとんでもないことを言い出すものだと思いますが、ラッセルが言いたいのは、過去自体というのはどこにもなく、ただ過去は想起するだけということです。同じように、「前世の縁」自体がどこかにあるのではなく、ただそれをわが身に感じるだけです。

タグ:親鸞を読む
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