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前世と来世(これでおしまい) [『浄土和讃』を読む(その54)]

(18)前世と来世(これでおしまい)

 未来は過去を(若干の願望を加えて)転写したものですから、来世も前世を転写しているのではないでしょうか。
 そこからしますと、この世に生まれてきたところへまた戻っていくような気がします。つまり前世と来世は同じところではないか。茫洋として摑みがたいところ(それもそのはず、想像するにも何の手掛かりもないのですから)からこの世に生まれてきて、長い短いの違いはあれ、ともかくこの世で一生を過ごした後、またその茫洋として摑みがたいところへ帰っていくというイメージ。
 念のためにひとことしておきますと、この言い回しはまたもや時間を空間化しています。頭の中に線を引いて、その左側が前世、真ん中が現世、右側が来世とし、線の両端を点線でつないで円環としているのです。しかし、これまで繰り返し述べてきましたように、過去は想起の中にしかなく、未来は予期の中にしかありません。ましてや前世や来世は想起も予期もできず、ただ想像の中にあるだけです。
 そんな想像に何の値打ちがあるのかと言われるかもしれませんが、どういうわけかこの想像は多くの人の心に根ざしていると言わざるを得ません。
 「帰る」ということ。ぼくらはこのことばを聞くだけで何かほのぼのしたものに包まれます。子どもは外で何か不安なことがあるとすぐ「おうちに帰りたい」と親の手を引っ張りますし、大人も旅行から帰宅しますとしみじみ「わが家はいいなあ」と思います。安心のあるわが家は恋しいものです。故郷の親から「帰っておいで」の便りが届いたときの喜びはかけがえがありません。
 「なむあみだぶつ」の声は、弥陀から「帰っておいで」と呼びかけられているのです。

タグ:親鸞を読む
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