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顔容端正たぐひなし [『浄土和讃』を読む(その56)]

(20)顔容端正たぐひなし

 先の曇鸞の偈の後半部分を親鸞は次の和讃でこううたいます。

 「顔容端正(げんようたんじょう)たぐひなし 精微妙躯非人天(しょうみみょうくひにんでん) 虚無之身無極体(こむししんむごくたい) 平等力を帰命せよ」(第23首)。
 「菩薩の顔はたぐいなく、すがたのよさも並でない。如来のさとりあらわせり。平等力に帰命せん」。

 「精微妙躯非人天 虚無之身無極体」は曇鸞の偈そのままで、『無量寿経』に「容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな、自然・虚無の身、無極の体を受く」とあるのによっています。自然、虚無、無極はみな涅槃(ニルヴァーナ)の意味にとっていいでしょう。かの土ではみんな涅槃の身ですから、そこに何の差もないということです。
 さて、娑婆では差別に苦しみ、浄土では平等を楽しむ。これをどう理解したらいいでしょう。
 ぼくらはどうしてもこちらに差別の娑婆世界があり、あちらに平等の安楽浄土があるというように思い、そしていのち終えた後、こちらからあちらへ移動するのだとイメージしがちです。空間的に捉えるのです。しかし、繰り返しになりますが(7、8)、娑婆と浄土は地球と月の関係ではなく、現在と過去の関係です。未来は過去の投影に他なりませんから、現在と未来の関係と言っても同じです。現在と過去および未来の関係は線の上に表すことはできません。それでは空間的な関係になってしまう。
 過去は〈いま〉想起するところにしかなく、未来も〈いま〉予期するところにしかありません。過去も未来も〈いま〉しかないのです。
 としますと、ぼくらは〈いま〉差別に苦しみ、そして〈いま〉平等を楽しむということです。ぼくらが〈いま〉差別に苦しんでいるのは紛れもない事実です。しかし〈いま〉平等を楽しむとはどういうことでしょう。それは、もともとはみんな平等であったということです。あるいはゆくゆくは平等になるということです。もともとは平等であり、ゆくゆくはまた平等になるのだとすれば本質的に平等であるということではないでしょうか。
 おたまじゃくしは蛙から生まれましたし、ゆくゆくは蛙になるのですから、どれほど姿かたちは違っても本質的には蛙でしょう。

タグ:親鸞を読む
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