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正定聚に定まるのは<いま> [『浄土和讃』を読む(その59)]

(23)正定聚に定まるのは〈いま〉

 改めて確認しておきますと、正定聚に定まるとは「必ず仏になれると約束されること」ですから、来世において正定聚に定まるということは、来世にその約束をしてもらえるということです。そして、来世にその約束をしてもらえるということは、〈いま〉そのように予期していることに他なりません。さて、よくよく考えてみますと、来世にその約束をしてもらえると〈いま〉予期しているということは、〈いま〉その約束をしてもらえたことに等しいのではないでしょうか。
 正定聚に定まるのが来世であるとみるか〈いま〉とみるかの違いは、つまるところ未来のとらえ方の違いです。
 過去なるものがどこかにあると思うように、未来なるものもどこかにあると思ってしまう。そして過去世(前世)から現在世(現世)を通り未来世(来世)へと移動していくとイメージするのです。これはこれまで何度も繰り返し述べてきたことですが、ぼくらがつい陥ってしまうところですから、何度でも言わなければなりません。未来なるものがどこかにあり、それを予期するのではありません。予期されたことが未来であり、そして予期するのは〈いま〉でしかないのです。
 来世において仏になるだろうと予期する(という言い方がまずければ、「そんな気がする」)のは〈いま〉です。そして確かに来世において仏になれるに違いないと思えるのが「正定聚に定まる」ということです。したがって正定聚に定まるのは〈いま〉しかありません。それが本願に遇うときであり、「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」であり、摂取不捨されるときです。

タグ:親鸞を読む
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