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一念慶喜するひとは [『浄土和讃』を読む(その61)]

(25)一念慶喜するひとは

 曽我量深氏の名言に「むかしの本願がいまはじまる」がありますが、「むかしの本願」を知っていることと、それが「いまはじまる」ことはまったく別のことです。
 またぼくのささやかな体験を持ち出しますと、見知らぬ方の「こんにちは」が「南無阿弥陀仏」と聞こえたとき、むかしの本願がいまはじまったのです。「南無阿弥陀仏」とは弥陀の「招喚の勅命」であることは知っていました。それをぼく流に「帰っておいで」の声であると理解していました。でもそれは頭でそのように納得していたに過ぎません。あるとき見知らぬ方の「こんにちは」の声が「南無阿弥陀仏」と聞こえたとき、「帰っておいで」と聞こえたとき、むかしの本願がいまはじまったのです、名号が聞こえたのです。それを何よりはっきり示すのは、わきあがる慶喜です。

 次の和讃もそれをうたいます。

 「若不生者(にゃくふしょうじゃ)のちかいゆゑ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」(第26首)。
 「若不生者の誓いあり。ゆえに信心おこりきて、一念慶喜するひとは、いま往生がさだまりぬ」。

 「若不生者のちかいゆゑ」とは、本願に「もし生まれずば正覚をとらじ」と誓っていることを指しています。「信楽まことにときいたり」とは、信心の時が来てということ、時が熟してということです。「若不生者のちかい」があるからこそ「信楽まことにときいたり」というこの言い回しには親鸞独特の味わいがあります。
 本願成就文に「至心回向 願生彼国」とありますのを、曇鸞は「回向して生ぜんと願ずれば」とうたっていましたが、親鸞はそれを「至心に回向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば」と読んでいます。この文は、どう見ても曇鸞のように読むものでしょう。それを親鸞はあえて、弥陀が「至心に回向したまへり」と読んでいるのです。われらが一生懸命に願生するのはその通りですが、実は弥陀がそのように仕向けて下さっているのだというのです。それが「若不生者のちかいゆゑ」ということです。だからこそ「信楽まことにときいた」るのです。

タグ:親鸞を読む
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