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往生かならずさだまりぬ [『浄土和讃』を読む(その62)]

(26)往生かならずさだまりぬ

 そして「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」のです。「帰っておいで」の声が聞こえて、「ああ、うれしや」の思いが膨れあがります。
 ある折に、見知らぬ方の「こんにちは」の声が「南無阿弥陀仏」と聞こえたというぼくの体験をお話しましたら、それは幻聴かもしれないじゃないですか、と言われたことがあります。なるほどそんなふうに思われるかもしれません。下手をすると統合失調症を疑われかねません。でもぼくの<耳>に「南無阿弥陀仏」と聞こえたのではありません、ぼくの<こころ>に「南無阿弥陀仏(帰っておいで)」と聞こえたのです。もしぼくの耳にそう聞こえたとしますと、これは幻聴と言わなければなりません。でも、ぼくの耳には「こんにちは」としか聞こえていません、それがこころの中で「南無阿弥陀仏」と聞こえたような気がしただけです。
 「なんだ、気がしただけか」と言われるかもしれませんが、これがぼくには「なんだ」ではすまないのです。こころのなかに「ああ、うれしや」の思いがあふれるからです。この喜びは予期したものではありません、突然どこかからやってきたのです。ぼくが喜びをゲットしたのではありません、喜びがぼくをゲットしたのです。「他力の真実」というのは、そういうことです。自分でああしよう、こうしようとするのではなく、有無を言わせず喜びに包まれるのです。傍からは「気のせい」と言われるかもしれませんが、ぼくには重たい真実です。
 そしてこれが「一念慶喜するひとは、往生かならずさだまりぬ」ということです。本願成就文には「即得往生(すなはち往生をう)」とありますが、その場で往生が完了するわけではありません。その場で往生への旅がはじまるということ、つまり正定聚としての生活がスタートするということです。正定聚に定まるのは〈いま〉をおいてありません。

               (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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