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天上天下にたぐひなし [『浄土和讃』を読む(その63)]

         第4回 讃阿弥陀仏偈和讃(その3)

(1)天上天下にたぐひなし

 『浄土和讃』は冒頭の冠頭讃2首につづいて、曇鸞の「讃阿弥陀仏偈」をもとにした和讃48首がきます。これまでそのうちの阿弥陀仏を讃える和讃13首、菩薩衆を讃える和讃11首を読んできました。そのあと浄土の素晴らしさ(荘厳)を讃える和讃24首がつづきますが、その第1首。

 「安楽浄土の依正(えしょう)は 法蔵願力のなせるなり 天上天下にたぐひなし 大心力を帰命せよ」(第27首)。
 「弥陀と菩薩とその国土、みな法蔵の願いから。その素晴らしさ比類ない。大心力に帰命せん」。

 依正と言いますのは依正二報のことで、依報と正報の二つの果報をいいます。依報とは安楽国土(宝地、宝池、宝樹、宮殿楼閣など)のこと、正報は阿弥陀仏と菩薩衆のことです。これらの果報はすべて法蔵菩薩の本願の力によるもので、他に比べようもなく素晴らしいと讃えているのです。
 ところで、浄土三部経を読んでいて、いちばん退屈するのが安楽国土の荘厳が説かれる箇所です。『無量寿経』では、たとえば「その国土、七宝のもろもろの樹ありて、あまねく世界に満つ。…また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな、七宝をもって荘厳し」というように樹も池も建物もどれほど煌びやかに荘厳されているかが説かれています。そして「目その(妙なる)色を観」るだけでなく、「耳その(妙なる)音を聞き、鼻その香を知り、舌その味を嘗め、身その光を触れ」るかが、これでもかとばかりに出てきます。
 第3回の冒頭で、「弥陀初会の聖衆は 算数のおよぶことぞなき」(第16首)とうたわれていることに、ちっともピンとこないと言いましたが、ここで安楽国土の荘厳がどれほど素晴らしいかと讃えられても、それよりももっと縁遠いことと感じてしまいます。絵空事の最たるものと思えるのです。いったいどうして経典はこのような非現実的な浄土の記述を重ねているのでしょう。安楽国土はこんなに素晴らしいところですから、みなさんそこに生まれることを願いましょう、というのでしょうか。それではあまりにも子供だましと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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