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無限とは [『浄土和讃』を読む(その66)]

(4)無限とは

 ある数に1を加えるという操作を考えてみます。1に1を加えて2となり、その2に1を加えて3となり、その3にまた1を加えて、という具合にこの操作はどこまでも続けていくことができ、数はどんどん大きくなってきます。かくして無限大∞に至るということになりますが、さてしかし無限に大きな数というのはあるのでしょうか。無限に大きな数というのは、もうそれ以上大きな数はないということですが、もしそのような数があるとしても、それにさらに1を加えるという操作をすることは可能でしょうから、そうしますと「もうそれ以上大きな数はない」とは言えなくなります。
 1を加えるという操作は無限に繰り返すことができますが、いや、そうだからこそ無限に大きな数に至ることはありません。
 無限ということばは、ぼくらが何かの操作を繰り返すことについて言うことはできても、その結果については言えないようです。「無限に~をする」とは言えても、「かくして無限に到達した」とは言えない。ところがぼくらはともすると「無限なるもの」があると思ってしまいます。「無限の数」、「無限の力」などと平気で言います。経典にはそのようなことばが満ち満ちています。そもそも阿弥陀仏とは「無量の寿命(アミターユス)」であり「無量の光(アミターバ)」です。
 しかし「無量の寿命」とは何か。経典はそれについてこう説明してくれます、「たとい、十方世界の無量の衆生、…すべてともに集会(しゅうえ)し、禅思(ぜんし)して一心に、その智力をつくし、百千万劫において、ことごとく、ともに推算して、その寿命の長遠の数を計るとも、窮め尽くしてその限極(げんごく)を知ること能わず」と。つまり無量の寿命とは、いつまでもその長さを数え続けることはできるが、決して数え終わることができないということで、「無量の寿命」なるものがどこかにあるのではないのです。

タグ:親鸞を読む
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