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一念大利無上なり [『浄土和讃』を読む(その68)]

(6)一念大利無上なり

 安楽浄土はこの娑婆世界とは別のところに(西方十万億土のかなたに)あるのではありません。さりとて、この娑婆世界の中にあるとも言えない。無限はもちろん有限ではありませんが、でも有限と別でもない、というこの言い表しがたい微妙な関係を頭において、次の和讃を読んでみましょう。

 「阿弥陀仏の御名(みな)をきき 歓喜讃仰(かんぎさんごう)せしむれば 功徳の宝を具足して 一念大利無上なり」(第30首)。
 「帰っておいでの声すれば、喜びみちて仰ぎみる。そのとき往生さだまって、この上のない利益なり」

 曇鸞の偈は「もし阿弥陀仏の号(みな)を聞きて 歓喜讃仰し帰依すれば 下一念に至るまで大利を得 すなはち功徳の宝を具足すとなす」で、これは『無量寿経』の末尾、いわゆる流通分(るずうぶん)の一文、「かの仏の名号を聞くことをうることありて、歓喜踊躍し乃至一念せん。まさに知るべし、この人、大利を得となす。すなはち、これ無上の功徳を具足するなり」にもとづいています。この文は、前に出てきました第18願成就文「あらゆる衆生、その名号をききて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」にぴったり重なります。
 「南無阿弥陀仏(帰っておいで)」の声が聞こえて、「あゝ、うれしや」と「南無阿弥陀仏(はい、ただいま)」が口をついて出たそのとき、「大利を得」るというのです。この「大利」とは、成就文に照らしますと、「すなはち往生をえ、不退転に住す」ことに他なりませんから、この娑婆世界のただ中で本願に遇うことができたそのときに安楽浄土に往生することができる(即得往生)ということです。もし安楽浄土が娑婆世界とは別のところにある世界でしたら、娑婆にありながらそのまま浄土に往生できようはずがありません。浄土はもちろん娑婆ではありませんが、でも娑婆と別ではないのです。

タグ:親鸞を読む
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