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「信の一念」と「行の一念」 [『浄土和讃』を読む(その69)]

(7)「信の一念」と「行の一念」

 「一念大利無上なり」の「一念」について。ちょっと煩わしい話ですが、真宗の教学では「信の一念」と「行の一念」が区別されます。
 本願成就文の「信心歓喜せんこと乃至一念せん」の「一念」を「信の一念」、流通分の「歓喜踊躍し乃至一念せん」の「一念」を「行の一念」とするのです。本願成就文と流通分の一文はぴったり重なりますから、その区別にどんな意味があるのかと思いますが、親鸞自身が『教行信証』の中で「行にすなはち一念あり。また信に一念あり」とした上で、「行の一念」を示すものとして流通分の一文を出し、「信楽に一念あり」として本願成就文を出しているのです。そこからこの区別がやかましく言われることになるのですが、さてこれをどう捉えたらいいかを考えておきましょう。
 名号が聞こえるのが「信」で、名号を称えるのが「行」ですから、「信の一念」があるのに対して「行の一念」があるのは自然です。そして「信の一念」とは、名号がはじめて聞こえてきたときの喜びであり、「行の一念」とは、その喜びが一声「南無阿弥陀仏」となることを表します。このように「信の一念」と「行の一念」を分けることはできますが、しかしこの二つは一連のもので、「信の一念」はかならず「行の一念」となり、「行の一念」はかならず「信の一念」を伴っていますから、これを別々のものとして切り離すことはできません。
 言うならば「行信の一念」というものがあり、それを信の側からみれば「信の一念」であり、行の側からみれば「行の一念」であるにすぎないのです。ところが、どうかすると両者が切り離され、一念ということばが出てくるたびに、これは「信の一念」か、はたまた「行の一念」かと喧々諤々の議論がはじまるのです。その行き着く果ては「信心か念仏か」という不毛な論争です。親鸞は関東の弟子たちに繰り返し「信も行も弥陀のお誓いですからひとつです」と書き送っています。

タグ:親鸞を読む
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