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みてらん火をもすぎゆきて [『浄土和讃』を読む(その70)]

(8)みてらん火をもすぎゆきて

 次の和讃です。

 「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」(第31首)。
 「広い世界にみちみちる、劫火のなかをすぎるとも、南無阿弥陀仏きくひとは、もはや一歩も退かず」。

 曇鸞の偈は「たとひ大千世界に満てらん火をも またただちに過ぎて仏の名を聞くべし 阿弥陀を聞けばまた退かず このゆゑに心を至して稽首したてまつる」で、これも『無量寿経』流通分の文「たとひ大火ありて、三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、…この経を聞かば、無上道においてついに退転せず」にもとづいています。
 大千世界(略さずに言うと三千大千世界)とはあらゆる世界ということです。仏教の世界観では、須弥山(しゅみせん、スメール山)を中心としたわれらの住む世界がひとつの小世界で、それを千集めたものが小千世界、小千世界をまた千集めると中千世界、さらにそれを千集めたものが大千世界です。そして世界は生成と破滅を繰り返すのですが、世の終わりには、大火(劫火といいます)、大水(劫水)、大風(劫風)の三災が起こると考えられています。最近の異常気象の中ではそれがリアルに感じられます。
 さてこの和讃で考えたいのは、「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは」と詠うとき、親鸞はどこにいるかということです。
 曇鸞は「たとひ大千世界に満てらん火をも またただちに過ぎて仏の名を聞くべし」と詠っていて、これは「たとえどんな困難な状況にあっても、そんなことはものともせずに仏名を聞かなければならない」ということでしょう。経の解釈として自然で、すんなりこころにおさまりますが、さてしかし親鸞も同じだろうかと考えてみたいのです。曇鸞が「仏の名を聞くべし」と言っているのを親鸞は「仏の御名をきくひとは」と言うというところになにか微妙な違いを感じるのです。

タグ:親鸞を読む
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