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仏の御名をきくひとは [『浄土和讃』を読む(その71)]

(9)仏の御名をきくひとは

 曇鸞のこころの動きを追ってみますと、「もし阿弥陀仏の号(みな)を聞きて 歓喜讃仰し帰依すれば 下一念に至るまで大利を得」ることができるのだから、「たとひ大千世界に満てらん火をも またただちに過ぎて仏の名を聞くべし」という流れで、非常に滑らかです。「仏名を聞くことができさえすれば救われる」のだから、「どんな困難が待ち受けていても、それをはねのけて仏名を聞かなければならない」というわけです。大学入試に合格すれば、将来の幸せが約束されているのだから、どんな困難があろうとも合格できるよう頑張らなければならないと言うようなものです。
 いっぽう、親鸞のこころの動きはこうではないでしょうか。「阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃仰せしむれば 功徳の宝を具足して 一念大利無上」だから、「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふ」のだと。一見、曇鸞の場合と同じように思われるかもしれませんが、違いが分かるように言いなおしますとこうなります。「もうすでに仏名を聞かせていただき、功徳の宝をいただいている」のだから、「たとえどんな困難な状況においても、それに足をすくわれることなく安心して生きていける」と。
 経に「難中之難、無過此難(難の中の難、この難に過ぎたるはなし)」とあり、親鸞も「正信偈」で「信楽受持尽以難、難中之難無過斯(信楽受持することはなはだもてかたし、難の中の難これにすぎたるはなし)」と詠っていますが、これも「仏名を聞くことはとんでもなく難しいが、どれほど難しくとも挫けず努力しなければならない」というように理解されることがあります。「たとひ大千世界にみてらん火をも」のりこえて、仏名を聞かなければならないと。しかし仏名(「帰っておいで」)は、それを聞かなければならないと言われて、聞けるものでしょうか。そうではなく、すでに聞かせてもらっていることにふと気づき、その喜びが湧き上がってくるものです。

タグ:親鸞を読む
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