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自利と利他 [『浄土和讃』を読む(その74)]

(12)自利と利他

 ここで思い起こしたいのが大乗仏教の菩薩思想です。伝統的な仏教(上座部仏教)が自己の悟りをめざすのに対して、「自分だけの救いはない、みんなが救われてはじめて自分も救われる」との考えのもとに大乗仏教が生まれてきたのでした。ですから大乗のエッセンスは「自分だけでなくあらゆる衆生の救いをめざして修行する菩薩」という思想にあると言えます。
 菩薩にとって自利と利他とは別ものではありません。「みんなが救われてはじめて自分も救われる」のですから、自利はそのまま利他であり、利他がそのまま自利です。法蔵菩薩の「若不生者、不取正覚(もしむまれずば、正覚をとらじ)」(第18願)の誓いこそ、その典型と言えるでしょう。「一切衆生が浄土に往生して救われなければ、自分も仏とならない」と言うのですから。
 「自分だけの救いはなく、みんなが救われてはじめて自分も救われる」ということは、たとえば自分のすぐ隣にいる誰かが「こころの平安」が得られず苦しんでいるときに、自分に「こころの平安」があるだろうかと考えればすぐ分かります。もし、隣にいる人のことなんか関係ないと言い切る人がいるとしますと、その人のこころは鉄か何かでできていると言わなければなりません。
 次の和讃は前首のつづきです。

 「自余の九方の仏国も 菩薩の往覲(おうごん)みなおなじ 釈迦牟尼如来偈をときて 無量の功徳をほめたまふ」(第33首)。
 「南や西の国からも、菩薩はゆきて弥陀にあう。釈迦『往覲偈』ときたまい、弥陀の功徳をほめたまう」。

 前の和讃が東方の仏国の菩薩たちの安楽浄土への往詣(おうげい)をうたっていたのと同様に、他の九方の仏国の菩薩たちもみな浄土に往覲すると述べ、そのことを釈迦が「往覲偈」で讃えているとうたっています。このように十方世界の菩薩たちが安楽浄土へ往覲するのはもちろん自分のために他なりませんが、しかしそれがそのまま、それぞれの国の衆生たちのためでもあるのです。自利がそのまま利他でもあるということです。

タグ:親鸞を読む
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