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浄土の荘厳は「いま、ここ」に [『浄土和讃』を読む(その80)]

(18)浄土の荘厳は「いま、ここ」に

 では「無限」はどこにあるのかといいますと、「いま、ここ」にしかありません。この娑婆世界の「有限」のただ中に浄土の「無限」はある。もちろん「無限」は「有限」の中に局限されているわけではありません。「無限」は「数限を超えて」どこまでも広がっています。その消息を言い表すのが「摂受(しょうじゅ)」ということばです。よく出てくるのが「摂取」ですが、同じでしょう。「おさめとる」ということ、あるいは「包み込む」ということ。浄土の「無限」は娑婆の「有限」をその懐に包み込んでいるのです。そしてそのとき娑婆は娑婆であるままで浄土です。
 「阿弥陀仏の本願力により浄土の荘厳が起こる」とありましたが、阿弥陀仏の本願力が働いているのはどこか遠い世界のことではありません。「いま、ここ」で働いているのです。だから浄土の荘厳は「いま、ここ」で起こっている。しかし「いま、ここ」は紛れもなく娑婆であり穢土です。その娑婆のただ中で浄土の荘厳が起こっている、その不思議をうたうのが次の和讃です。

 「自利利他円満して 帰命方便巧荘厳(ほうべんぎょうしょうごん) こころもことばもたえたれば 不可思議尊を帰命せよ」(第37首)です。
 「自利利他回向欠け目なく、浄土にさそい南無せしむ。こころとことばともに絶え、不可思議尊に帰命せん」。

 もとの曇鸞の偈は「世界光曜すること妙にして殊絶す …自利利他の力円満したまふ 方便巧荘厳を帰命したてまつる」とあります。阿弥陀仏の本願力に遇うことができましたら、まさに世界は「光曜する(光輝く)」こと妙です。そこには浄土の荘厳が目の当たりに出現しています。その喜びは如何ばかりでしょう。親鸞はそれを「こころもことばもたえたれば」とうたいます。はるか彼方の世界のことだから「こころもことばもたえ」るのではありません、いま目の前で展開している光景に「こころもことばもたえ」るのです。娑婆のただ中で浄土の荘厳が出現することに「こころもことばもたえ」るのです。

タグ:親鸞を読む
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