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見ることの帝国主義 [『浄土和讃』を読む(その81)]

(19)見ることの帝国主義

 弥陀の本願に遇い、そこに浄土の荘厳があらわれると言われますと、ぼくらはそのさまをじっと見ようとします。ほれぼれと味わえばいいのに、じっと見ようとする。
 そこには「見ることの帝国主義」があります。「見る」ことが、「聞く」こと「嗅ぐ」こと「味わう」こと「触る」こと、そして「思う」ことすべてを支配しようとするのです。妙なる音が聞こえてきたとき、それに聞きほれればいいのに、音を見ようとします、この音はどこからくるのかと。聞こえる以上、見えなければならないのです。いい香りがしてきたとき、それに陶然とすればいいのに、香りを見ようとします、この香りの元はどこにあるのかと。香りがする以上、見えなければなりません。
 妙なる音に聞きほれているとき、ぼくらは音にゲットされています。いい香りに陶然としているとき、ぼくらは香りにゲットされています。ところがそれでは満足できず、それらをゲットしようとするのです。そして、それらをゲットするということは、その元を見定めることに他なりません、それらはどこから来るのか、と。こうして「見ることの帝国主義」がのさばることになります。普通はこの戦略はうまくいき、音の源、香りの元を見定めることができます。
 しかし弥陀の本願に遇うときは、この作戦がうまく運びません。紛れもなく本願にゲットされ、喜びが込み上げているのですが、さて本願をゲットしようとしても、それがどこから来るのか定かではありません。見ようとしても見えないのです。そこで「見ることの帝国主義」はこう宣言します、見えない以上、存在するとは言えないと。聞こえる以上、見えなければならず、香りがする以上、見えなければならないように、本願に遇えたというならば、それは見えなければならない、と。

タグ:親鸞を読む
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