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主客の分離 [『浄土和讃』を読む(その83)]

(21)主客の分離

 「見る」と「聞く」の違いにあらためて目を向けましょう。あっ、こう言うなかにもうすでに「見ることの帝国主義」が顔を出しています。ぼくらは何ごとであれ、とにかく「目を向けよう」とします。何かに目を向け、それをターゲットとしてじっと見定めようとします。そのとき、見ている自分とターゲットとは明確に分離されています。この主客の分離が「見る」ことの本質ですが、「見ることの帝国主義」はこの主客の分離をすべてに及ぼそうとします。「聞く」こと、「嗅ぐ」こと、「味わう」こと、「触る」こと、「思う」ことすべてに、主客の分離の図式が押し付けられるのです。
 それは、何かを「見る」ことは、詰まるところ、それをゲットすることであるということに関わります。何かをターゲットとして見定めるということは、それをゲットしようとしていることです。そして「見る」ことは、ターゲットとして見定めたものをゲットするために「聞く」こと、「嗅ぐ」ことなどをすべて自分の補助として総動員しようとしますから、「聞く」こと、「嗅ぐ」ことなどすべてが主客の分離の構図の中にはめ込まれてしまうのです。
 しかしこれは明らかに「見る」ことの横暴と言わなければなりません。美味しさに陶然としているとき、ぼくらと美味しさとは一体で、その間に隙間はありません。そのときには「ああ、うまい!」があるだけです。「この美味しいものは何ですか?」とか、「これはどこでとれたものですか?」と尋ねるのは、その後のことです。そのときにはそれを「見て」います。そしてできればそれをゲットしたいと思っているでしょう。しかしぼくらが美味しさをゲットするのではなく、ぼくらは美味しさにゲットされるのです。
 あるいはいい曲想にうっとりしているとき、ぼくらはその曲想にゲットされています。そこに主客の分離などありません。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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