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妙なる音 [『浄土和讃』を読む(その84)]

          第5回 讃阿弥陀仏偈和讃(その4)

(1)妙なる音

 次の和讃は浄土の妙なる音についてうたっています。

 「宝林・宝樹微妙音(みみょうおん) 自然(じねn)清和(しょうわ)の伎楽にて 哀婉雅亮(あいえんがりょう)すぐれたり 清浄楽(しょうじょうがく)を帰命せよ」(第39首)。
 「浄土の木々はかそけくも、おのずからなる和音もて、仏の慈悲を伝えくる。浄き楽に
ぞ帰命せん」。

 難しいことばが出てきますが、哀婉とは「哀れで優美」、雅亮とは「あでやかで明るい」といった意味でしょう。ここでもまたこの妙なる音をどこか遠い世界のことととらえるべきではありません。浄土の荘厳は「いま、ここ」で起こるのですから。しかし宝樹の妙なる音が「いま、ここ」で聞こえるとはどういうことでしょう。
 因幡の源左は、ある朝、裏山で草刈りをし、その草を牛の背にのせて家に帰る途中、不思議な声を聞いたと言います、「源左たすくる(源左よ、たすけるぞ)」と。この声は源左のこころに沁みわたり、源左はそれに「ようこそ、ようこそ」と応じたのでした。この声は牛の鳴き声だったかもしれず、あるいは辺りの木々がそよぐ音がそう聞こえたのかもしれません。しかし、自然の音が人の声に聞こえるなどと言いますと、それはただの気のせいだと受け流されるかもしれません。そんな気がしただけで、それは事実ではないと。では、あることが事実だとはどういうことでしょう。
 またしても「見ることの帝国主義」がしゃしゃりでて、事実であるとは何らかのかたちで見えることだと言うでしょう。科学者なら、聞こえる音を計器でとらえ、それを音波のような形で表して何であるかを確認しようとするに違いありません。そこに人の声のような形が現われていれば、人の声が聞こえたと認定できるが、ただの牛の声や木々のそよぎの音だとすると、それは気のせいと判断されます。実際にそのような計測をすれば、自然の音しか検出されないでしょうが、その結果に源左は納得するでしょうか。源左はおそらくこう言うでしょう、「ああ、そうですか。でもわたしにはそう聞こえたのです」と。

タグ:親鸞を読む
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