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光耀たがひにかがやけり [『浄土和讃』を読む(その85)]

(2)光耀たがひにかがやけり

 次の和讃です。

 「七宝(しっぽう)樹林くににみつ 光耀(こうよう)たがひにかがやけり 華菓枝葉(けかしよう)またおなじ 本願功徳聚を帰命せよ」(第40首)。
 「浄土の木々はうるわしく、たがいにひかり輝いて、枝葉もひかり映してる。弥陀本願に帰命せん」。

 先の和讃は宝樹の妙なる音についてでしたが、この和讃は宝樹の光耀を讃えています。これまた西方十万億土のかなたの話ではなく「いま、ここ」でのことだとしますと、これをどう理解すればいいでしょう。「いま、ここ」には金や銀や瑠璃や珊瑚でできた木々が互いに光り輝きあうということはありそうにありません。
 しかし、不思議な声に包まれるという経験があるように、不思議な光に包まれるということもあるのではないでしょうか。
 浄土教には光のメタファーがあふれています。そもそも阿弥陀仏はアミターバ、無量の光です。そしてこの無量光仏は十二の光の名をもっていたのでした(第2回)。阿弥陀仏に遇うということは、この不思議な光に遇うということです。闇の世界に閉ざされているときに、ふと光に包まれる、これが救いの典型的なイメージです。ここで少し光というものについて考えてみたいと思います。
 これまで「見ることの帝国主義」について述べてきました。「見る」ことは主客の分離の構図を「聞く」こと「嗅ぐ」こと等に押し付けているということでした。本願の声が聞こえるとき、われらと本願とは一体なのに、「見ることの帝国主義」はそれを無理やり引き離し、どこに本願があるのか見ようとします。そして、見えないなら「それは気のせいだ」で片付けようとするのです。
 ところで光は「見る」ものではないでしょうか。としますと、われらが無量光仏を見るという構図になり、主客が分離してしまいます。

タグ:親鸞を読む
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