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染香人 [『浄土和讃』を読む(その87)]

(4)染香人

 しかし眼も色に向かうより前に、向こうから光が届いています。耳に声が届けられて聞こえるように、眼に光が届けられて見えるのです。まず光が届き、しかる後に光に照らされたもの(色)を見るのです。その意味では、「色声香…」ではなく、「光声香…」とした方が筋が通っているかもしれません。眼識も耳識などと同じく「感受」性であると言うことを確認しておきたいと思います。
 第40首に戻りますと、七宝の樹林が光り輝くとうたわれているのは、不思議な光に包まれるという経験もあるということではないかと考えていたのでした。この「感受」の経験において、不思議な声が聞こえる場合と同じように、やってきた光とそれを受ける自分とは切り離せません。われらが光をゲットしたのではなく、われらは光にゲットされ、それに包み込まれて一体となっています。そこに言うに言われぬ喜びがあります。
 さて次の和讃は風に吹かれる宝樹の音声をうたっています。

 「清風宝樹をふくときは いつつの音声(おんじょう)いだしつつ 宮商(きゅうしょう)和して自然(じねん)なり 清浄薫(しょうじょうくん)を礼すべし」(第41首)。
 「浄土の風が木々をふき、いつつの音色かもしだし、それらが和して自然なり。香りの仏に帰命せん」。

 いつつの音声とは「宮・商・角・徴・羽」の5音階のことで、それらが調和して妙であるとうたっているのです。曇鸞の偈をみますと、その最後が「清浄勲を頂礼したてまつる」となっていますから、「清浄薫」はおそらく写し間違いでしょうが、宝樹の光と音声ときましたから、薫りということばがついて出たのかもしれません。
 薫りということで頭に浮かぶのは「染香人(ぜんこうにん)」ということばです。信心の人を指して使われますが、香りが染まった人というのは何とも味わい深いことばです。向こうからやってきた名号の芳しい香りに身が染まるのです。こちらから染まろうとするのではなく、気がついたらもう染まってしまっている。そして喜びが湧き上がってくる。これが信心歓喜に他なりません。

タグ:親鸞を読む
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