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光明てらしてほがらかに [『浄土和讃』を読む(その89)]

(6)光明てらしてほがらかに

 光の場合も同じです。不思議な光に包まれてうっとりするとき、「わたし」はどこにもいません、ただ身体が光に染め上げられているだけです。ところがまもなく「わたし」が飛び出てきて、「この光は何だろう、どこから来るのか」と探し始めます。かくして「わたし」と光が分離するのですが、問題は、そのとき主客未分という世界がそもそもなかったことになってしまうことです。世界は最初から主客が分離しているとされ、客体は主体とは別のどこかに特定されなければなりません。もし特定できなければ存在しないと判断されてしまうのです。
 主客未分という原初的な世界を手放さないようにしたいと思います。続く和讃を一気に3首読みましょう。いずれも蓮の華の光をうたいます。

 「一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」(第42首)。
 「浄土の蓮の華からは、無数の色のひかり出て、月光のごとほがらかに、いたるところを、照らしてる」。

 「一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身もひかりもひとしくて 相好金山(こんぜん)のごとくなり」(第43首)。
 「その一々の華からは、無数の仏ひかりもて、身にまといつつ出で来たり、あたかも金の山のよう」。

 「相好ごとに百千の ひかりを十方にはなちてぞ つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいたらしむ」(第44首)。
 「その姿より百千の、ひかりをあたりに放っては、智恵の教えをときひろめ、われらに念仏すすめしむ」。

 もとの曇鸞の偈は「一々の華のなかより出すところの光 三十六百有千億なり 一々の華のなかに仏身あり 多少また出すところの光のごとし 仏身の相好金山のごとし 一々また百千の光を放ち あまねく十方のために妙法を説き おのおの衆生を仏道に安んず」とあります。「三十六百千億」という数字は何だろうと思いますが、経によりますと、青・白・玄・黄・朱・紫の六色の光が、それぞれにまた六色の光を放って三十六の光となり、それが百千億(つまりは無量)あるということでしょう。また「ほがらか(朗らか)」とは、月の光が明るく輝いていることを意味します。月の光が朗らかにぼくらに届くように、仏の光も朗らかに「いま、ここ」に届いているのです。

タグ:親鸞を読む
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